2016年10月3日月曜日

携帯文字変換中毒 その1


 「たちつてと、あいう、たちつてと、あいう、かきくけこ、わをん、な、なに、な、たちつ、*、
たちつて、さし、ま、たちつ、*、た、わをん。」

 彼は、携帯電話の文字入力の速さを自慢にしていた男だが、日常会話に支障をきたしてしまっている。
なんとか以前のように、普通にしゃべることができるように努めるのだが、
そうするとかえって、言葉がつかえてしまい、次の単語が出てこない。

 営業の仕事をしているため、人前で話すことがほとんどだ。
お客さんたちには、最初の2,3分くらいは面白がられたが、すぐに怒り出す人が100%だった。
本人は携帯文字変換会話が普通なので苦ではない。
以前のように、普通の言葉で話そうと努力すると顔は歪み、口元が引きつり、
発声する声色は扇風機の前でふざけてやる「我々は宇宙人だ」になってしまう。
どちらの話し方をしても、相手にとっては聞きづらく
なによりも、「ふざけているのかっ、馬鹿にするのもいい加減にしろ」と怒らせてしまう。

 会社の上司にこんな状況を説明するにしても、携帯文字変換でしか会話ができず、
ほんの5秒で物を投げつけられる始末だ。
「You are fired.」
「かきく、はひ、*、は、あい、や、たちつて、*、さしす」
しかし、本人もこんな状況ではそうだろうと納得してしまっている。
万事八歩ふさがりだ、どうしよう。

 仕事は人並み以上にこなし、営業の成績も全国でトップテンに入っているほどよい。
北海道でナンバーワンだったのを見込まれて、名古屋本社に栄転したのは数年前のことだった。
もうじき不惑の40だが、この営業の仕事に迷いはない。
次期営業部長の前評判は高く、周囲からは一目も二目もおかれている。
お客様から信頼も厚い。
この歳で部長なら、役員への道も光が射している。
仲間にはこんなふうに言う者も多く、本人もまんざらではない。

 お客様への連絡は即時性ということでは、携帯にかなうものはない。
モバイル機器は便利だが、今使っているような体との一体感を感じる
体の一部感覚がない。
眼鏡は顔の一部です、はとうに通り越してしまい、体の一部であり、
これがなくなったら、日常生活を営むことは無理だ。
携帯は眼鏡だと彼はつくづく感じ入っていた。

 スマートフォンも世に現れたときから数機種使ってみたが、
なぜか彼にはしっくりこなかった。
バッテリーのもちが愛用している携帯に比べて悪いのが一番気になっていた。
やはり今自分が営業で動き回っているこの仕事のスタイルには携帯が最善だ。
スマホはカバンに入れたままになってしまっている。

 彼が自分のこんな症状に気づいたのは、
アフターファイブの同僚との飲み会のときだった。
同僚から指摘されるまでわからなかったのだ。
飲み会の席上で、軽い冗談のつもりで
「この喋り方、おもいろいじゃん、みんなもちょっと試してみよう」
ということで、始まったはよいが、
ほんのいっときで白けてしまった。

 彼はコンピュータの日本語入力を「かな入力」で行っている。
営業報告書をまとめているとき、入力ミスが多くなったのに本人自身も気づいていた。
飲み会のときに同僚から指摘されて、彼自身ハッとした。
「かな入力」は入力するとき、そのままかな文字の51音を打ち込んでいけばよい。
ところが、51音各行「あかさたなはまやらわん」の先頭文字からナゼか打ち込んでしまうのだ。
言葉を発せず頭のなかで考えているときもきっと同じことが起きているのかもしれない。
それが普通になってしまえば、特段意識することなくそれが行われているだけで
なんの不便もないし、そのことによるストレスなんて勿論ない。
彼の言語中枢はすっかり、携帯文字変換モードに侵されしまっていた。

 同僚に指摘され、本人も自覚したときから
彼の苦痛は始まった。

(続く)



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