2016年10月10日月曜日

携帯文字変換中毒 その5

 日本の勤務では、K2Pアプリで営業に精を出す一方で、彼は猛烈な努力を怠らなかった。
以前のように普通の日本語の会話ができるような訓練は続けていた。
テキストのゆっくりな音読と呼吸法は効果がかなりあった。

 鳥類に顕著な現象だが、卵から孵った雛鳥は一番最初に目にしたものを親鳥と認識する。
刷り込み(imprinting)という。 
人間の言語中枢は12歳までに染み込んだ言語の体系から抜け出れないのだという。
戦争で疎開した子どもたちの年齢と言葉のイントネーションや方言の使い方などを研究した成果らしい。
彼の会話が携帯文字変換になってしまっているのは、子どもの頃の頻繁な引っ越しによる、
言語中枢の何らかの変化が原因なのだろうか。

 やろうとおもえば、通常の携帯を間に入れない会話の営業スタイルに戻ることもできただろう。
営業には相手とのリズムがある。押しと引きの間合いも大切だ。
接待は必然だが、都合のよいことに携帯に入力してある音声dataは既にできあがっている声だ。
これはお客様たちにすこぶる評判がよい。

 K2Pアプリには、いくつかの音声dataが最初からインストールされている。
男性は小次郎(変声期前の小学生の声)、次郎(成年)、裕次郎(映画スターでちょっと気取った話し方)。
女性は桃子(やや色っぽい艶やかな声)だけだ。
デフォルトは次郎に設定されている。
年配の音声dataがないのは、何故なのだろうと彼は考えたが、すぐに気づいた。
加齢による入力する指の機能の衰えで、難しいからに違いない。

 訓練した声を入れ替えてみた。
確かに自分の声であるが、しかし違う。
緊張した卒業式の式辞になってしまう。
この声では仕事にならない。
すぐにもとに戻し、それ以降この設定は変えられないように鍵をかけた。

 営業報告書を英文で書くことも多くなってきたとき、
彼はもしかしたらと、おもうことがたびたびであった。
英文の報告書の入力では、よどみなくスラスラと入力できるのだ。
周りに人がいないとき、彼はその文章を発声してみた。
おもわず、激しく立ち上がって、机に両膝をしたたかに打った。
流暢な発音で読み上げることができた。
もしかしたら・・・

(続く)

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