母の買い物はいい加減なもので、お店の人とおしゃべりに行く毎日の運動である。
その脇で、果物や野菜や魚や肉などの、色つや形を見て回るのが楽しかった。
母は野菜などを大量に買うのが癖だった。
農家の長女に育った母は、ザルに盛られた野菜などをチマチマ買うなんてできなかったのだろう。
たくさん買えば安くなったこともあるだろうが、箱買いが多かった。
家の台所床は、そんな野菜だらけで、結局食べきれずに腐らしてしまい、畑の肥やしになってしまった。
さて、そうやって買いだした農産物を、小さなボクはそれらを背中に背負い込み、
両手にぶら下げ家への急坂を登った。
冷蔵庫などという電化製品がない子供時代、買い物は毎日の家事に等しいことだった。
冷蔵庫がない生活というものを、かなりな年月したはずなのであるが、
記憶にないのは、どういうことなのだろう。
あたりまえな、日常の生活だったからだろうか。
しかし、冷蔵庫の上にのっかっていた電話機のことはよく憶えている。
この電話のときも、ボクが所帯を持ったときの固定電話もそうだったが、
電話債券10万円近くの大金をはたいて、引いたものだった。
この電話債券は、結局うやむやにされ、お金は戻ってくることはなかった。
おい、電電公社よ、今はNTTか、金返せ。
暴動や革命が起きてもおかしくないくらいのことなに、よくもすっとぼけていられるもんだ。
冷蔵庫の上の電話が我が家に登場したとき、近所の公衆電話から電話をかけたときは興奮した。
ダイヤルを回す指先に力が入りすぎ、上手に回せなかったものだ。
電話口から兄の声が聞こえてきたときの驚き。
お兄ちゃん、ボクだよボク、わかる?、聞こえる?
声が上ずっているのが自分でもよくわかった。
耳に残っている兄の声が消えないうちにとおもい、全速力で家に帰った。
お隣さんには、冷蔵庫があったが、電気で冷やす現在のものとは異なっていた。
氷で冷やすのである。
仕組みというほどのものはなく、断熱材の周りを木の箱で囲った中に、氷の塊を入れるだけである。
なので、毎日氷を補給しなくてはならない。
そのために氷屋さんが毎日来る。
子どもたちはこれが待ち遠しい。
大きな鋸でシャリシャリと大きな四角柱の塊にする。
それをでかい先の尖ったかぎ針みたいなはさみでつかんで移動させる。
真夏に、氷屋さんが車から氷を出し入れするときの
冷気の白さとひんやりした空気の流れの中に
体を入れる事ができたときの気持ちよさといったらなかった。
その作業中に小さく割れた氷の小片がでるのだが、
子どもたちはこれがお目当てなのだ。
氷屋のおじさんから、ほらよってもらったかけらを口に頬張ったり、
両手で交互に持ちかえながら、しゃぶる。
この氷を口に頬張ったときの感触はほっぺたが今でも覚えている。
家の冷蔵庫でできた氷を頬張ったときの感触とは全く違う。
冷たい角とれたガラスのかけらを口に入れてレロレロ弄んでいるとでも言おうか。
噛んで粉々にし、ただ冷たいものを口にしているなどという味わい方は、初心者である。
氷の感触と冷たさを楽しみつつ、なるべく長く口に残すというのが正しい。
母の言いつけで、ひとりで買い物に行くことも多かった。
お使いである。
醤油を買ってこいと言われお店について瓶を忘れるなどしょっちゅうだった。
そこの店では、大きな醤油樽の栓の口にジョウゴをあて、瓶にうつしていた。
豆腐屋に行っても、鍋やボールを忘れこともしばしばであった。
トーフーとラッパを吹きながら自転車でくる豆腐屋もあったが、店で買うほうが多かったような気がする。
ボクの足腰はそうやって鍛えられていった。
まだ道が舗装されてなく、石ころだらけのときだった。
小学校入学前に、家のすぐ角の砂利道で転び、おでこを5針くらい縫う怪我をしたことがあった。
顔面血だらけになったことを憶えている。
そんなボクを見ても、元看護婦の母は全く慌てている様子はなかった。
さすが、中国の戦場の修羅場をくぐり抜けてきたことだけはあったのだろう。
現在でもその傷跡に触れると、何か小粒の出っ張りがある。
小石でも入っているのだろうか。
夏の暑い日、母が西瓜を買ってこいという。
家の北側にあり、裏の八百屋といっていたが、5,6分のところにあり、
商店街まで出かけないときはここですましていた。
でかい西瓜を両手で腹の前に持ち、やっとこさ歩いていたのだが、
けつまずいてしまい、落とした西瓜がふたつに割れてしまったことがあった。
ふたつに割れてしまっては、一度に持てない。
ためらわずに、割れた片方を道端で食った。
簡単に食いきれるとおもったのだが、これが手強い。
ランニングシャツの腹がぷっくり膨れてしまった。
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