一人ををおんぶし、もう一人は手を引いていた。
バス停まで見送りに来てくれたお婆さんに、
「ほら、雨がひどくなるめーに、けーんなよ。さぁのった、のった。」
押し込まれるようにボクたちはバスに乗り込んだ。
上の子は窓際のいつもの座席に座り、おでこを窓ガラスにくっつけて
お婆さんに手をふっている。
見えなくなるまで、子どもはバイバ〜イを連呼し、手をふっていた。
この時間帯のこのバスはボクたちにとって、とても貴重なバスなのだ。
この時刻に発車するバスは、自宅そばのバス停まで乗り換えなしで行くことができる。
それ以外のバスは、接続する電車の始発駅が終点で、結局電車に乗り換えて歩くことになる。
幼い子どもを連れて、乗り換えは大変である。
時間も直通のバスに比べて倍以上かかってしまう。
子どもは電車にも乗れて喜ぶのだが、父親のボクはやはり乗り換えないほうがよい。
家についたら、風呂に入れて夕飯を食べさせなければならない。
焦ることもないのだが、子どもたちを決まった時間に寝かせたいので気はせいてしまう。
上の子はお婆さんが見えなくなると、次のことにとりかかる。
子どもの目はもうそのことでキラキラ輝き、口元はそれを実行するときを待ち、キリッとしている。
子どもの決心と歯ぎしりが伝わってくる。
降車する一つ手前のバス停から、その緊張が伝わり始める。
そのバス停を過ぎると次がいよいよ降りるバス停だ。
「次は◯◯。降車する方はそばの降車ボタンをお押しください。」
アナウンスが流れる。
子どもの手が伸び、指で丸いボタンをとらえようとした瞬間、
ピンポン、「次△△停車します。薬はさとう薬局、さとう薬局でお求めください。」
音が鳴ってしまった。
子どもの顔が驚きと無念さでひきつっている。
子どもは母親の実家にあずけられた昼間から、
半日近くこのバスの降車ボタンを押すことを楽しみにしてきていたのだ。
お婆ちゃんの家に来ると、帰りのバスが楽しみだ。
落書き帳には、いつもクレヨンでバスと降車ボタンの絵を描いていた。
その色のクレヨンだけがすっかりチビテしまっている。
小さな長方形の箱の中に梅干しみたいな、まあるいえんじ色のボタンがある。
生唾をゴクリとしながら、
自分で描いたそのボタンにそぉ〜っと、人差し指をのせてみたりした。
そうすると、頭のてっぺんの方からピンポンとくぐもった音が聞こえる。
今度は、ボタンの近くまで人差し指を近づけ、勢いよくグゥッっと押し込んでみる。
前のときよりも輪郭がハッキリとピンポンと音が飛び出す。
そんなことを何度も繰り返していた。
人差し指の先は茶色く汚れてしまい、お婆さんにいつも拭いてもらっていた。
自分自身でこの小さな機械を操作し、音が鳴り、アナウンスが流れ、バスが停車する。
すべて自分から始まって自分の力で行うことができる数少ないことのひとつなのだ。
自分でその操作がうまく行ったときは、帰宅してからも
何かの動作の区切りで
ピンポン と言って、ご機嫌に次のことにとりかかる。
柱のお気に入りの節目を押して、ピンポン。
それくらいうれしく有頂天になることができるのが降車ボタンなのだ。
それが、何ということだ。
どこかで何かの手違いでもあったのだろうかというような呆然とした表情で固まっている。
目には涙がいっぱい、たまり始めていた。
外は本降りになっていた。
子どもと降車口へ向かうと、おんぶしていた下の子がグズって泣き始めた。
上の子は口を真一文字に固く結び、涙をこらえている。
運転手さんの前の機械に運賃を入れようとポケットを探ると、ない。
あせった。
いつもは必ず用意してある小銭がこんな雨の日に限って忘れるとは。
おんぶしている子どもは泣き出し、手を引いている子は涙をこらえ、
ボクは自分のかさばる荷物を持ち、傘をかかえ、
料金箱の前で財布を出しガサゴソしてると、気持ちばかりがあせった。
小銭が出せない。
「おとうさん、いつも頑張るね、いいよ、いいよ、今度でいいよ。」
運転手さんの声だった。
ハッとして、運転手さんの方を見た。
左手で降車口の方をさしながら、笑顔で
「子ども降りるとき気をつけて」
ボクは深々と頭を下げ、次乗るときに必ずお支払いしますからと約束して
降車した。
バス停で、遠ざかるバスの後ろ姿にもう一度ボクはおじぎをした。
すっかり暗くなった街路を行き交う車のヘッドランプが、降りしきる雨の隙間からまぶしかった。
必ず払いますから、さっきは助かりました。ありがとうございました。
何度も繰り返した。
バスの赤い後尾灯は雨にかすみ、見えなくなっていた。
「お父さん、降りるときお金払わなかったね」
固く結んでいた子どもの口から、声が聞こえた。
子どもに簡単に説明した。
「やさしい運転手さんだね」
子どもの声はいつもの感じに戻ってきてるようだった。
子どもの目が正気をとりもどしてきた。
どうしたのだろう。
しきりに目線で何かをうながしている。
降車したバス停のすぐ脇にある横断歩道の押しボタンを見て、といっているようだった。
子どもは気づいていた。
これなら誰の邪魔にもされない、自分にしか押せない。
目が押していいか聞いている。
子どもは力強く人差し指で押し込んだ。
子どもがお父さん青になったよ、渡ろうよと言っている。
ボクは青になったのに気づかなった。
ハッとして、とりつくろう。
はい、右見て、左見て、もう一度右見て。
手を引いている子どもと背中の子が濡れないように傘をさした。
前から吹き込む雨はボクの顔にあたっていた。
家までもうすぐだ。
手を引く子どもの手を、少し強くぎゅうっと握った。
子どもの手は暖かかった。
なんか目がにじむ。
どうしたのだろう。
今度はボクの目に涙がたまり始めていた。
あめあめフレフレかぁさんが〜
握っていた子どもの手を大きく振り出しながら、
ボクは歌い始めた。
雨でひどく濡れていた夜道を、靴でわざとバシャバシャと音をたてて歩いた。
子どもも面白がって、雨道を踏みつけるように音をたてた。
じゃのめでおむかえうれしいなぁ〜
顔にあたった雨が、冷たくて気持ちいい。
ピチピチじゃぶじゃぶランランラン
子どもは機嫌をなおし、ボクと一緒に歌っていた。
子どもの手がボクの手をふっていた。
さあ、そこの角を曲がれば家の玄関が見える。
あともう少しだ。
おんぶしている下の子はいつの間にか、泣き止んでいた。
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