2016年9月22日木曜日

鎌倉鶴岡八幡宮 初詣

 ボクは高校生。
正月2日、鎌倉は鶴岡八幡宮に初詣へ出かけた。
駅の前から人混みでごった返していた。
まわりの人達は、晴れ着で表情も明るい。
通学に着ている薄っぺらなコートのボクは
もう少しましな格好をしてくればよかったとうつむいて
脚を引きずるように歩いていた。
靴もボロで情けない。
友人数人と出かけたのだが、混雑にまぎれ皆とはぐれてしまった。

 初詣客の小石を踏みしめる足音の中から
抑揚の強い、アクセントがわざとらしい声が聞こえてきた。
遠くを見ると、手作りの看板を掲げている、西洋人とおぼしき人が声を張り上げていた。

「しんじ〜るものぉはぁ〜 すっくわれ〜っ まぁ〜すぅ」

 もうずいぶんと声を張り上げていたのだろうか。
顔面真っ赤になっていた。
少しづつ近づいてくる、その人をボクは観察した。
正月だからといって小綺麗な服装ではなかった。
かといって貧相ではない。
どことなく、下町のサンドイッチマンの雰囲気が漂っている。
この人は、どこに焦点を合わせて話しかけているのだろう。
初詣客の頭の上を過ぎ去る風にのせて、音を運んでいるだけなのだろうか。

 鎌倉には八幡宮に向かう通りに面した、鎌倉雪ノ下教会がある。
駅からすぐである。
そこの関係者が正月一番、信者獲得の辻説法を行っているともおもえない。

 そのころ、都内の大きな駅の前では
同じような形の看板を掲げ、声を張り上げている西洋人をよく見た。
ほとんどの人は何事もないかのように、ただ通りすぎて行った。

 初詣客はその人のところだけ数人分の隙間を作り、避けるように歩いていた。
だいぶ近づいてきた。
歯並びはよく、髭を生やしてる。目玉は輝き、視線もしっかりしているが
やはり、どこを見ているかははっきりしない。
マイクも使わず、地声で張り上げ、声量もあり、よく通る声だ。
あちこちで鍛えてきたのだろう。
コレほどの群衆の中でも、ひるまず身じろぎもしない。

「しんじ〜るものぉはぁ〜 すっくわれ〜っ まぁ〜すぅ」

 余分な言葉ははさまずに、ひたすらこの言葉を繰り返す。

 突然、大学生くらいの青年がその人の前に飛び出した。
青年は叫ぶように、その人に向かって一気に早口でしゃべった。
「信じれば本当に救われるのですか?
本当に信じれば救われるのですか?
信じるだけで、信じるだけで救われるのですか?」
青年は必死の形相であった。

 周りの群衆は一斉に、その青年と西洋人を見た。
青年の西洋人を見上げるその真剣で悲壮感のある目をボクは見ていた。
強く訴える眼力に、西洋人の喉仏がゴクリと動いた。
青年は両方の手のひらをすがるように、看板を掲げている西洋人の腕に押し当てて
「信じれば、救われるのですか?
信じるだけで救われるのですか?」
青年は滑舌よく、ハッキリと尋ねていた。

 西洋人は、今までどこにも合わすことのなかった視線をその青年に向けた。
低い潤いのある静かな声でその青年に語りかけた。
「しんじるものは、すくわれます。」
流暢な日本語だった。
声高に叫んでいた今までのものではなかった。
落ち着いた包み込むような優しい声であった。

 青年は両手をその西洋人からはなし、だらんとさせた。
西洋人はそれだけのことを言うと、
すぐにまた、どこを見ているかわからない視線を遠くへ投げた。

「しんじ〜るものぉはぁ〜 すっくわれ〜っ まぁ〜すぅ」


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